源平の合戦と平知盛

甲宗八幡宮が鎮座します門司港地区は、かつて源平両氏の最後の決戦地である壇ノ浦を望む街であり、対岸の下関市とともに源平ゆかりの古跡を数多く見ることが出来ます。ここ甲宗八幡宮も、元暦2年(1185)3月に壇ノ浦合戦前に鎌倉方の大将であった源範頼(1150~1193)と副将の源義経(1159~1189)兄弟が揃って参詣し、重藤弓と鏑矢を源氏の氏神である八幡神に奉献して戦いの必勝を祈願しており、また戦勝後にはその霊験あらたかな御神威に深く感謝して社殿一切を新たに造営したとの記録が社伝に残ります。


平知盛卿「前賢故実」より

世に「新中納言知盛卿」として知られる平知盛(1152~1185)は平清盛(1118~1181)の4男として生まれ、若年より才気煥発、長じて文武に優れた名将となり、「入道相国(平清盛)最愛の子」と呼ばれるほどに期待を掛けられた人物でありました。また栄華を極めた平家の公達の常として、中央政界でも順調に昇進を重ね、僅か8歳にして五位となり、26歳にして三位に至り公卿に列すると、31歳には従二位権中納言となるなど、六波羅政権(平家政権)の重鎮、朝廷内の高位高官として重んじられました。

我が世の春を謳歌していた平家一門でしたが、やがて源頼朝や源義仲など全国で六波羅政権に反感を持つものが次々と挙兵し世の中は大いに乱れる事となりました。このような中で一門の総帥である清盛入道は「頼朝の首を我が墓前に供えるか、もしくは一門悉く頼朝の前に屍を晒すべし(一門全員死ぬまで戦え)」との遺言を残し没すると、知盛卿は新たに平家の総帥となった兄の平宗盛(1147~1185)を補佐して平軍の将帥となり、迫りくる源軍に対して頑強に抵抗を続けました。然しながら、剽悍で知られる坂東武者と稀代の戦術家である源義経の奇策の前に平軍は敗戦を重ね、知盛卿もこの一連の源軍との戦いで息子の平知章(1169~1184)を失う悲運に遭う等、次第に平家一門は西へ西へと追い詰められて行く事となります。

そして元暦2年(1185年)3月24日、赤間関において源平両軍の最後の決戦である壇ノ浦の合戦の火蓋が切って落とされます。もはや後がない平軍は開戦当初より最後の力を振り絞って奮戦しますが、兵力と士気で勝る源軍が徐々に盛り返し、平軍内部からも離脱者や裏切りが続出したため源平決戦の大勢は決する事となりました。知盛卿は生母の二位尼(平時子1126~1185)に平軍の敗北を伝えると、二位尼は幼い安徳天皇(1178~1185)を抱いて波底の都へ旅立ち、平家の公達や女官も次々に海中へと身を投げていきました。知盛卿は一門の最期を全て見届けると「見るべき程の事は全て見つ(見るべきものは全て見た)」との言葉を残し、重しのために鎧二領を身に纏い、乳兄弟の平家長(?~1185)と手を取り合って入水しました。享年34歳でした。

壇ノ浦の合戦後、知盛卿の遺体は門司関へ漂着し、これを憐れんだ里人によって壇ノ浦を見渡せる筆立山に葬られたと伝わります。その後数百年の間、門司港の人々によって墓と供養塔は守られ続けていましたが、昭和28年(1953年)の水害の際に麓へ流出した為、現在は当社社殿横に遷座し、静かに現在の門司港の街を見守り続けています。


平知盛卿の墓(左)と供養塔(右)