御祭神

御祭神(八幡三神)

第一殿
応神天皇(おうじんてんのう)

仲哀9年(200年)、第14代仲哀天皇と神功皇后の御子として生まれた応神天皇(200~310年)は、その腕の肉が弓具の鞆(とも/ほむた)のように盛り上がっていたので、古事記では品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)、日本書紀では誉田別命(ほむたわけのみこと/ほんだわけのみこと)・誉田天皇(ほむたすめらみこと/ほんだすめらみこと)、また父の仲哀天皇の死去により母の神功皇后の胎内にあった時から皇位に就く宿命にあったので胎中天皇(たいちゅうてんのう)とも称されます。鞆とは弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕などに当たるのを防ぐ道具※1で中世頃には用いられなくなりましたが、応神天皇は生まれながらの武神と言われていました。

応神天皇は八幡神とされています。
八幡神の起源について「八幡宇佐宮御託宣集(はちまんうさぐうごたくせんしゅう)」に「辛国(からくに)の城に、始めて八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり」という一文があります。八流の幡は八幡の名称の基となったとも言われています。「八」は数が多いこと、「幡」は「旗」を意味し、神の依り代とされています。「辛」は「韓」や「伽羅」に関連すると言われ、八幡神の源が外来神であったことが示唆されています。応神天皇が崩御されて後の欽明天皇32年(571年)に宇佐の地にて、鍛冶の翁、金色の鷹、鳩の姿、三歳の童子と変化しながら大神比義の前に現れた神は、「われは誉田の天皇広幡八幡麿(すめらみことひろはたやはたまろ)なり。われの名は、護国霊験威力神力大自在王菩薩(ごごくれいけんいりょくじんつうだいじざいおうぼさつ)で、神道として垂迹(すいじゃく)せしものなり」と告げ、八幡神は応神天皇の神霊とされました。その八幡神を祀ったのが大神比義であり、後に宇佐神宮の初代宮司となります。武神である応神天皇と、万物の魂を供養する放生会があるように死者を供養し戦場を浄化する仏教が合わさり八幡大菩薩とも称され、武将達の多くは八幡神を敬い、神仏習合の神として崇められていきました。


応神帝御影「集古十種」より

※1 鞆を着用した射手「年中行事絵巻」より


第二殿
神功皇后(じんぐうこうごう)


御誂座敷幟ノ内 神功皇后と武内大臣

仲哀天皇の皇后であった神功皇后(170~269年)は、古事記では息長帯比売命(おきながたらしめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后(おおたらしひめのみことこうごう)、日本書紀では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と称されます。仲哀9年(200年)、仲哀天皇は琴をひき、大臣の建内宿禰(たけのうちすくね)が神託を求めると、神功皇后が神がかりしましたが、その教えに従わなかった仲哀天皇は神の怒りに触れ崩御されてしまいます。熊襲討伐の後神功皇后に再び神託があり、御子(応神天皇)を身ごもったまま朝鮮半島に出兵し、新羅の国を攻めました。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝具を約束したと言われています(三韓征伐)。


第三殿
市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)多紀理比売命(たぎりひめのみこと)
多紀津比売命(たぎつひめのみこと)


天照大神と弟の建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)に仲違いがあり、互いの潔白を証明する誓約時に天照大神から誕生した三女神であります。筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降りしたと伝えられ、八幡神の出現以前の古い地主神であります。